分け隔てなく様ざまな釣りを楽しみ続けているヨッシー。
コロナ禍により人生で初めて長期間釣りから離れ、竿を握りリールを回す時間がいかに幸福かを噛みしめている。
なぜそれほど釣りが好きなのか──。
アマチュアからプロになったヨッシーの半生をたどりながら釣りの魅力に迫る、「今だからこそ」のスペシャルドキュメンタリー!
【Profile】吉岡進(よしおか すすむ)
「ヨッシー」の愛称で人気のジャッカル・ソルトプロスタッフ。
クレハインストラクター。
沖釣りをメインに日本狭しと走り回り、ルアー、テンヤと幅広い釣りを楽しんでいる。
釣りはヨッシーにとって、「あって当たり前」のもの
「こんなに長い期間釣りをしないのは、人生で初めてッス」
吉岡進さん──ヨッシーはそう苦笑いする。
「今まで1週間釣りをしないことなんかなかった。でも今回はさすがに自粛。もう1カ月以上釣りをしてない。新型コロナウイルスの感染が終息して最初に釣り船に乗るときは、オレ、感動して泣いちゃうな、きっと・・・」
冗談ではなさそうだった。
釣りはヨッシーにとって、「あって当たり前」のものなのだ。
生まれてすぐに釣り竿を持った。
首が据わる前に、親が握らせたらしい。
ヨッシー本人の記憶はもちろんなく、後から親に聞いた話だが、もし事実なら釣りデビューは生後3、4カ月ということになる。
釣りの申し子だ。
毎週末のように父に連れられ、ひとつ年下の弟や母とともに茨城県鹿島へ釣りに出向いた。
埼玉の家から下道で2時間以上。
土曜に夜釣りして、日曜の昼に帰ることが多かった。
サビキ釣りや投げ釣りで、アジ、イワシ、カレイなど釣れる魚はなんでも釣った。
ヨッシーの釣りは、いつも驚きと衝撃をバネにしながらステップアップしていった。
鮮やかに記憶しているのは、小学生のときに初めてルアーで釣ったアナハゼだ。
エサを使わず、ジグヘッドとワームで本当に魚が釣れて、「すげえ!」と驚いた。
「そこからはルアー釣りばかりになったんスよ。『アジング』なんて言葉もなかったけど、ジグヘッドとワームでサビキ釣りよりも多くのアジを釣ってました」
中学生のころ、第2次バスフィッシングブームが巻き起こった。
同級生と始発電車に乗って牛久沼に行き、何の考えもなしに沖に向かってルアーを投げ、タダ巻きしていた。
それでも釣れるほど魚影は濃く、病みつきになった。
父との鹿島行きは変わらず続いていたが、帰りに霞ケ浦や利根川水系に立ち寄り、バスを釣った。
あるとき、霞ケ浦と北浦が常陸利根川につながる外浪逆浦で竿を出した。
いつもどおりなんとなく沖にルアーを投げていたが、まるで釣れない。
たまたま足元のストラクチャーにルアーを落としたら、いきなりグッと重みが乗った。
巻いてくると、水面でバシャバシャッとバスが跳ねた。
「エッ、なに?なんで!?こんなすぐ近くに潜んでたのか!?」と衝撃を受けた。
「釣りの発想がガラッと変わったんスよ。それまでは何も考えずにポンポン投げてたけど、『バスは障害物に着いてるようだ』と分かったんです。そこからはテクトロ(テクテク歩きながら岸沿いをトローリング)で爆釣ですわ」
中学、高校にかけては猛烈な勢いでバス釣りをした。
中3の修学旅行から帰り、「どうだった?」と母に聞かれた瞬間、いきなり反抗期に突入したが、父との釣りは欠かさなかった。
高校ではテニス部に入部したが、土日に練習があると聞き「それじゃ釣りに行けないじゃん!」と3日ほどで辞めた。
文化祭もサボって釣りに出かけた。
高校を卒業すると、家業を手伝い始めた。
非常に忙しかったが、休日はやはり釣りだった。
「唯一、釣りだけだったんスよ、続けられたのが。イヤになることも飽きることも、一切なかった」
バス釣りの技術はどんどん向上した。
ルアーの操作法、ポイントの探し方、正確なキャスティング技術。
やがて大会に出るようになると、勝ちたい一心でひときわスキルが高まった。
それにつれて、ぼんやりと「バスプロになりたいな」と思い始めた。
19歳のとき、とある雑誌企画のバス釣り大会に参加し、東日本大会で優勝した。
大きな弾みになるはずが、むしろ逆だった。
「取材で同船してた記者の人に話したんですよ。『オレ、バスプロになりたいんス』って。でもその記者さんに『やめたほうがいいよ』と言われちゃって・・・。バスプロになる難しさとか現実の厳しさとか、苦労話をさんざん聞かされて、『じゃ、やーめた』ってあきらめた」
生まれついての釣り好きが、記者のつまらない言葉でバスプロになる夢をあっさり捨ててしまうのは、なんとももったいない。
だが当時のヨッシーには、「釣りは、忙しい家業の合間にするもの」という意識があった。
「釣りを仕事にする」という遠い憧れより、「家業を切り盛りする」という身近な現実を選んだ。
長男としての責任感も強く働いていた。
その約1年後、父が肺がんで急逝した。
大会での優勝は、ぎりぎり父を喜ばせることができた。
賞金は50万円。
恩返しのつもりで父と母に5万円ずつ渡したが、「ケチだったかなあ」と反省している。
宮本英彦さんと運命の出会い、一つテンヤマダイを知る!
20歳で父を失ったヨッシーは、しばらく1人で、やがては弟と2人で仕事を切り盛りすることになった。
多忙を極めたが、それでも週に1回は必ず釣りをした。
本格的に沖釣りを始めたのはそのころだ。
バス釣り仲間に誘われて、東京湾のフグ釣りに挑戦した。
「コレ、めっちゃ面白い!」
繊細なアタリを取る釣りは、バスで鍛えたヨッシーの得意分野だった。
そして2回目に行ったとき、運命的な出会いがあった。
宮本英彦さんと同船したのだ。
「やべえ、本物だ!」
バスのトップトーナメンターとして鳴らし、生ける伝説とも言える宮本さんと、まさか船で一緒に釣りをするとは夢にも思わなかった。
それどころか宮本さんはヨッシーの腕前をすぐに見抜くと、主宰する釣りクラブ「おでこ会」に呼んでくれるようになった。
そしてヨッシーは一つテンヤマダイを知る。
これが釣り人生を方向付ける決定打となった。
「もうね、どハマリでしたよ」とヨッシーは振り返る。
湾フグと同じように、繊細なアタリを取る面白さがある。
合わせが決まれば、待っているのは硬質で豪快なマダイの引きと、細糸でのスリリングなヤリトリだ。
仕事を弟に押しつけ、週4回は通った。
宮本さんは、当時、沖釣りに進出しつつあったジャッカルとのつながりを作ってくれた。
フィッシングショーに呼ばれ、「若くてイキのいいのがいるよ」と加藤誠司会長や小野俊郎社長に紹介された。
「色いろ手伝ってほしいんだ」と言われたが、何をどうするのかも分からなかったし、それきり動きはなかった。
しばらくたってそんな話があったことすら忘れていたころに、宮本さんから「ウチにおいで」と連絡があった。
いぶかしがりながら顔を出すとそこには小野社長がいて、「釣りビジョンの『BinBinソルト』に出演してくれないか?一つテンヤマダイやタチウオジギングで、ナカジー(中島成典さん)の先生役をやってほしいんだ」と言われた。
そのようにしてジャッカルとの関わりが増えていったが、自分から積極的にアピールすることはなかった。
「自分にとって釣りは趣味の一環。メインの仕事じゃない」という思いがあったからだ。
それに当時のジャッカルは沖釣りではまだ後発メーカーで、ラインナップも少なかった。
フィッシングショーでは接客もしたが、「今じゃ考えられないぐらいブースも小さかったし、人も少なかったんです。宮本さんでさえ『バスに戻ろうかな』って冗談を言うほどだったッスから」
だが後発なだけに、「何か新しいこと、面白いことをやってやろう」という気概があり、アイデアがあった。
その前向きさがヨッシーを引きつけていた。
それに、華やかなバス釣りの世界に対して、当時の沖釣りというジャンルはまだまだ地味だったのだ。
「なんとか見返したい」という反骨心もあった。
宮本英彦さんと出会い、一つテンヤマダイを知ることが釣り人人生を方向付ける決定打となった。
出典:
趣味から仕事の釣りへ。ヨッシーはプロとなる
相変わらず自己アピールはしなかったが、「吉岡くん、キャスティングもうまいねえ。じゃあ、こんなことも・・・」といった具合に、自然と役割は広がっていった。
「趣味の釣り」が「仕事の釣り」になろうとしていた。
それと時を同じくして、ジャッカルも沖釣り製品のラインナップを積極的に増やしていく。
バスで培ったベースがあったヨッシーは、どんなジャンルも素早く自分のものにしていった。
ジャッカルとヨッシー、ともに成長するダイナミックな喜びがあった。
家業も順調で弟に任せられるようになり、仕事としての釣りの比率が増えた。
そして2016年、釣り1本で身を立てることを決めた。
20歳でバスプロの夢をあきらめたヨッシーが、14年をへて、海の世界でプロアングラーになったのだ。
「思い切ったというより、すんなりそうなったって感じでした」
人との出会いを生かし、自分の環境を徐々に整え、もともとベースのあった技術を磨きながら、自然な流れに乗ることでヨッシーはプロとなった。
気負いや過剰な期待がなかったから、今もヨッシーは自然体のままでいる。
ターゲットの魚が釣れれば本気で喜ぶ。
釣れなければ本気で悔しがる。
「仕事だから絶対に釣る」という高いプロ意識を携えつつも、根っこにあるアマチュアリズムは子供のころのままだ。
ターゲットの魚が釣れれば本気で喜ぶ。釣れなければ本気で悔しがる。
出典:
船では多くのファンから声をかけられるが、自分がスゴイと思ったことはない。
それよりも、多少でも自分の影響でジャッカル製品を使ってくれる人がいるなら、それが素直にうれしい。
そして、実際に製品を使っているファンの人たちの声に真摯に耳を傾ける。
「『なるほど!』と思うことがたくさんあるんです。たとえ自分たちが優れたモノを作ったつもりでも、『使い方が分からない』という意見があれば、改善しなくちゃいけない。モノ自体も、『使い方』という情報を伝えるって意味でも」
ファンとのふれあいも、製品開発のヒントだ。
釣りへの真剣さは、プロになってひときわ増している。
「何も考えずに釣ることはありません。いつも何かしらの成果を求め続けてます。うん、釣果というより、成果かな。そりゃ自然相手ッスから、釣れないこともある。それはあまり気にならない。それより、自分が何を得られたか。自分が考えていたことと、魚からの答えがピタッと合ったときは、レベルが高まってる気がする。その繰り返しです」
海での釣りはまだまだジャンルが多くて、驚きや発見の連続だ。
やりたいこと、試してみたいことがたくさんある。
「こうしてみたい、ああしてみたい」と頭を使う限り、そしてアタリがあったときのドキドキ感がある限り、釣りは終わらないと思っている。
そして現在のヨッシーは、さらに違う段階に足を踏み入れている。
「人に釣ってもらうことに喜びを感じてるんです。正直、自分が釣るよりも、自分が作った製品を使った人や、自分が教えた人が釣ってくれるほうが、今はうれしい。何も考えずにボーッと釣り糸を垂れるのもいい。上達を目指すのもいい。楽しみ方は人それぞれでいいと思うんです。でも、釣りをしたことがない人がいるなら、ぜひやってみてほしい。ジャッカルでの製品開発や情報発信を含めて、自分なりのやり方で釣り人を増やすために頑張っていきたいッス。裾野を広げることが、釣りの世界のためには一番大事なんじゃないかなって」
たとえ生まれ変わったとしても、釣りのない人生なんて考えられない。
ひとりでも多くの人に竿を握ってもらうために、ヨッシーはまた船に乗る。
「やっぱ、釣りはやめられねえなあ」と思いながら。
「何も考えずに釣ることはありません」
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「人に釣ってもらうことに喜びを感じてるんです」
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隔週刊つり情報(2020年6月1日号)※無断複製・転載禁止